呆丈記

呆れたものがたり

消えた日

 小さなわが街からツタヤが消えた。

 

唯一の本屋さんツタヤが消えた。

 

撤去された店名看板、雨ざらしで野外に放置されているスチール棚。

 

くさりで封鎖された無人の駐車場、いつも深夜まで明るかった大通りの光が死んだ。

 

ゲームも本も砂漠の水のごとく入手困難ゆえに蒸発したかのようにツタヤは消えた。

 

 

 

通勤途中で見かけていた幼稚園送迎バスにこどもを乗せた後に、そのままおしゃべりに没頭するお母さんたちの集団が消えた。

 

小学校に入学したのか?通りに均等間隔でできていたその集団は、今ではわずかに残る程度・・・・

 

 

庭に刺していたソーラーLEDライトが消えた。ダ〇ソーで108円で買ってきたのに朝になったら5個全部なくなって消えた。

ダ〇ソーまで20分かかるので盗んだ方が早かったのか・・・・

 

 

はたらきかたかいかく・・・・残業はあるが残業代が消えた。

動くサッカーゴールのごとく毎日定時時刻が動く、こうして残業が消えた。

働く意欲も消えた・・・・・

 

 

 悩みが消えた。

考えても解決しないことはどうしようもないこと。昔はよく言っていたのにね、鬼のように難しいファミコンのゲームに『元々これはクリアできないようになってるんだ』ってね。液晶ゲームウォッチの999999点のあとに何事もなかったように0点に戻り、ハイスコアにならず消えた。

 

 

 

消えて良いもの悪いものすべては自己中心的な人間目線の視点に過ぎない

たとえ自然が滅んで消えたとしても、それは人が壁に付いたバネを縮めているだけに過ぎない。人の力が弱くなり消えればまた押し戻される。

 

意欲と言う燃料が枯渇しない限り、情熱とやる気の炎が消えることはない。

たとえ死んでもなお燃えさかる。

 

 

 

 

 

 よって給料日直前に財布から紙幣が消えるのは色んな事に燃え尽きたからに過ぎない。