呆丈記

呆れたものがたり

ストレイシープジンギスカン

 『信じる者は救われる』、『困った時の神頼み』人は時として迷える子羊となり道を見失う・・・・

 

藁をも掴む思いで暗闇で救いを求める子羊たちを導く僅かな螢光には悪意に満ちたものもある・・・・・

 

逝きつく先は天か地か?神のご加護があらんことを・・・・

 

 

 今週は宗教の勧誘を2回受けた。

いずれも七十代~八十代のおばあさんからだったが、どうやら勧められたのは偶然にも同じ宗教だった。

 

どちらのおばあさんも、ほんの数年前にその宗教に改宗したそうで『人生の転機』だったと話していたのが印象的に映った。

 

 

日本では【宗教】そのものによいイメージが無いのが現状だろう。

 

それは金銭をせしめ取る詐欺まがいの『カルト』宗教だったり、諸外国で起きている『テロ』や宗教紛争の印象が圧倒的多数を占めるのではないだろうか?

 

たしかに金銭がらみや武力闘争は付きまとうが一部の宗教、宗派に過ぎない。

共通の思想で同じひとつのものを信仰する。

そこにはそれぞれの悩み、願い、救いを求める人々が一堂に集う。

 

 

 そう考えれば宗教とは実に健全な集まりなのではないか?

 

 

これまでも度々通行人や仕事先で宗教に誘われたことがある。

私は色々な宗教の思想や信仰には興味があり、また信者同士のコミュニティはどうのとか訊ねると信者の人は実に親切に教えてくれる。

 

 

 初対面の席では【政治】【宗教】【野球】の話は絶対にタブーだと社会人になりたての頃教わった。

なぜなら、これらの信念は簡単には揺るがないし変わることがない信念であるかららしい。

 

冒頭の勧誘の2人のおばあちゃんの改宗のきっかけになった『人生の転機』とは、大病を患って手術して生死の境を彷徨ったからと、ふたりとも改宗のきっかけが共通していた。

 

そうなると本来はそうそう揺るがないはずの『信念』が揺らいで改宗したことになる。

 

そして改宗して現在信仰しているその宗教の理念に『輸血の禁止』があるのも興味深い。

 

 

 例えば【呆丈教】という宗教があったとして、その呆丈教を熱心に信仰している人の血液を有名な偉大な宗教の信者に大量に輸血した場合、【呆丈教】に改宗してしまう可能性が少なからずあるのではなかろうか?

 

もちろん統計やデータを取ったわけでもなく、たまたまそのようなふたりのおばあちゃんがいたというだけでは何の根拠にもならない。

 

 

『神を信じるか?』と訊かれると『ぜひいて欲しい』と答えるだろう。

そして神に問いたい『なぜ本当に助けてほしい時に手を差し伸べてくれなかったのか?』の理由を聞きたい。

問いたい、なぜ迷える子羊を丸焼きにしたのかを・・・・・

 

 

 以前も同じことを書いたが『スマホ本体が肉体』で『魂がSIMカード』のようなもので本体が朽ち果てても、別の本体に魂であるSIMカードをさして新たな一生としてリスタートするのではないか?前世の記憶などはアカシックレコードなどに記憶されていくのではないか?

 

 

『自分はこれからこうやって生きていくんだ』と幼いながらもしっかりとした信念を持った子どもに何回か会った事があるがもしかしたら、このような背景があるのかも知れない・・・・・・