あぶくのように生まれて呆気なくきえてゆく
ひとのいのちは尊く儚い、それもまた想うがゆえに煙のごとく消える。
残る過去の思い出に思いを馳せてひとは昇華する。
本日、令和元年5月18日、母親が死んだ。享年65歳
【令和】のはじまりは絶望の幕開けとなった。
私は残された『不安』と『絶望』と仲良く生きていかなければならない。
ちょっと疲れて活動を休止してしまった母の心臓のように、歩みを止めるわけにはいかない。
時は常に動いている立ち止まってはならないのだ。止まれば『マリオ』の強制スクロール面のように世間に挟まれて死ぬ。
母親がいなくなったこの世は、まるで別な世界になった。
いつも行く食料品スーパーも御ひいきのホームセンターもなんだか違和感しかない。
向こうの世界はどうだろうか?無事退院できていつもの生活に戻っているころ。
向こうの自分は【呆丈記】をどう更新しているだろうか?
そもそも【呆丈記】はあるのだろうか?
母は平成5年にも大きな手術を受け入院したが、その時の方がより深刻な状態であった。本来であればその時に亡くなっていたと思われる。
いま私は様々に分岐したうちの一つであるこの世界から呆丈記を執筆している。
元気な母親がいる世界やお役所勤めを続けている世界の自分に・・・・・・・
『そっちは枝だよ、幹はこっちだ』って伝えたい。
そしてあなたは呆丈記のある世界を見ている。